ブラックタイガーの正体は? 歴代のブラック・タイガーを比較 初代~7代目
こんばんは。
今回はタイガーマスクのライバル的存在である歴代の
【ブラック・タイガー】についてになります。
【ブラック・タイガー】についてになります。
プロレス界において、タイガーマスクに対抗するライバルキャラクターとして登場したブラックタイガー。
彼の正体は初代から7代目まで様々なプロレスラーによって演じられました。
また、タイガーマスク同様に覆面は虎の頭を模し、カラーリングは黒をベースに銀または白で縞模様が描かれています。
ここでは、歴代のブラック・タイガーたちを比較しながら、その正体に迫っていきます。
ブラックタイガーの正体は? 歴代ブラックタイガーを比較 初代~7代目
順を追って紹介していきます。
初代ブラック・タイガー
初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルとして1982年4月21日
新日本プロレス蔵前国技館大会でデビュー。
正体はイギリス出身のマーク・ロコ
マーク・ロコ
ドロップキックの名手として活躍した父のジム・ハジー(ジム・ハッシー)からはプロ入りを反対されていたが、父のツアー中に密かにコリン・ジョイソンのトレーニングを受け、1970年2月25日に英国マットにてジョイソンを相手にデビュー。
マックス・クラブトリーが運営を引き継いだデール・マーティンズ・プロモーションズ(ジョイント・プロモーションズの基幹組織)を主戦場にヒールのポジションで活動。
1979年9月には "ローラーボール" マーク・ロッコのリングネームで国際プロレスに初来日し
阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座に2度挑戦。
1980年から1981年にかけては、当時イギリスで武者修行中だったサミー・リーこと佐山聡と抗争を展開しており、佐山がタイガーマスクとして凱旋後の1982年4月には、覆面レスラーのブラック・タイガーに変身して新日本プロレスに初登場をします。
タイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。
同年5月6日にはグラン浜田を破り、タイガーマスクの負傷による返上で空位となっていた同王座を獲得したが20日後の5月26日にタイガーマスクに敗れ短命王者で終わる。
新日本マットを日本での主戦場に活動。
アントニオ猪木に頼まれ、ハルク・ホーガンにレスリングの基本をコーチしたこともあったそうです。
1991年に引退するまでプロレス界で活躍し続けた。
2020年7月30日、69歳でこの世を去る。
2代目ブラック・タイガー
1993年9月、新日本プロレスでデビュー。
獣神サンダー・ライガー、ワイルド・ペガサス、ディーン・マレンコ、2代目ブラックを新日本のジュニアヘビー級戦線の四天王「ジュニア・フォー・ホースメン」と呼ぶ声もあった。
正体はアメリカ出身のエディ・ゲレロ
エディ・ゲレロ
プロレス一家として育つ。
3歳でドロップキックをマスターしたとされ、7歳の時には、当時4歳の甥であるチャボ・ゲレロ・ジュニアと、興行の休憩中に余興的な試合を行ったところ、観客が夢中になり、売店を営む親族から物が売れなくなるからやめるように頼まれたエピソードがある。
プロレスラーとして正式にデビューしたのは1987年の時。
3人の兄たちとのコンビでCMLLを主戦場とした。
この時期にワールド・レスリング・アソシエーション、WCWにも参戦している。
1992年に素顔で新日本プロレスに初来日。
このときは、正統的な動きの中に切れのある空中技を披露し、天才レスラーと称えられた。
また、この頃出会ったクリス・ベノワ、ディーン・マレンコとは生涯にわたって親友と呼び合う仲になり、その後も行動を共にしていく。
同じ頃、CMLLでマスカラ・マヒカという覆面レスラーへの変身を命じられるが
自身の扱いに不満を持ち、新興のライバル団体AAAに電撃移籍をする。
自らマスクを脱いで正体を明かしたルチャリブレ史上唯一の選手となった。
日本とメキシコとを往復し、日本では2代目ブラック・タイガーとして獣神サンダー・ライガー、3代目タイガーマスク、ベノワ、マレンコらと新日本ジュニアの黄金時代を築いた。
1996年には新日本プロレスが主催するジュニアヘビー級選手権ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにおいて優勝している。
WWEでも人気を誇るが2005年11月13日早朝、遠征先のミネアポリスのホテルで死去。
38歳で、この世を去る。死因は動脈硬化性疾患。
3代目ブラック・タイガー
2001年1月、ケンドー・カシンのパートナーとして新日本プロレスでデビュー。
メキシコのCMLLで同名のプロレスラーが新日本のリングに上がったもので唯一、新日本の流れを汲まない3代目ブラックである。
正体はメキシコ出身のシルバー・キング
シルバー・キング
父はドクトル・ワグナー。
兄はドクトル・ワグナー・ジュニア。
元妻は女子プロレスラーのソチ浜田。
息子はシルバー・キング・ジュニア。
1985年11月、UWAでプロレスデビュー。
1987年10月、アンヘル・ブランコ・ジュニアと共にドクトル・ワグナー・ジュニアのリングネームで全日本プロレスに参戦し、初来日。
エル・テハノとロス・カウボーイズ(Los Cowboys)を結成し、1991年7月にはWWA世界タッグ王座を戴冠。
2001年、CMLLに復帰。
同年1月、新日本プロレスにて3代目ブラック・タイガーとして来日。
ケンドー・カシンとタッグを組んで活動。
2005年、新日本プロレスにてロッキー・ロメロがブラック・タイガーを継承してデビューしたため、ブロンコのリングネームでロス・ゲレロス・デル・インフェルノにメンバー入りして活動。
ロス・ゲレロス・デル・インフェルノ脱退後、負傷により長期間の欠場を経てシルバー・キングのリングネームで復帰。
2003年10月、全日本プロレスに参戦。
2019年5月11日、イギリスに遠征し、ロンドンでのフベントゥ・ゲレーラとの試合中に心筋梗塞を起こしたことが原因で51歳で、この世を去る。
4代目ブラック・タイガー
2005年5月14日、新日本プロレス東京ドーム大会でデビュー。
2009年4月5日、新日本プロレス両国国技館大会で4代目タイガーとのIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦して敗れる。
また、この試合はカンペオナート・コントラ・マスカラ戦(4代目タイガーが敗戦すれば王座を失う代わりに4代目ブラックが敗戦すればマスクを脱ぐという条件での試合)であったため試合終了後に4代目ブラックはマスクを脱いで正式に正体を明かした。
正体はキューバ出身のロッキー・ロメロ
ロッキー・ロメロ
高校時代はアマチュアレスリングのフリースタイルで活躍し、ロサンゼルス郊外にて柔術を学ぶ。
1997年10月よりプロレスラーになるべくトレーニングを開始し、1998年6月、サンバーナーディーノを拠点とするエンパイア・レスリング・フェデレーション(Empire Wrestling Federation、略称 : EWF)のヴィクターヴィル大会にて、ロッキー・ロメロとしてデビュー。
各団体を転戦していた時、UPW参戦時に知り合ったジャスティン・マッコリーの誘いで、サンタモニカを拠点とする新日本プロレス・ロサンゼルス道場の門を叩く。
同じく入門したレジェスと共に、アントニオ猪木の指導の下に練習の日々を過ごし、2002年10月より新日本が主催する後楽園ホール大会に出場。
2005年5月より、ブラック・タイガー (4代目)の名義で新日本に参戦。
C.T.Uサポートメンバーの一員として、ライバル的存在のタイガーマスクをつけ狙い、10月8日東京ドーム大会にて、IWGPジュニアヘビー級王座とNWA世界ジュニアヘビー級王座を賭けたダブルタイトルマッチとしてタイガーと対戦、暗闇脳天落としで勝利を収め二冠王に輝いた。その後は3代目タイガーマスクとして活動した経歴を持つ金本浩二を相手に両王座の防衛に成功を収めたが、2006年2月19日両国国技館大会において4代目タイガーに敗れて両王座から陥落した。
2007年2月より新日本を離れると、リングネームをロッキー・ロメロに戻して、プロレスリング・ノアにセミレギュラー参戦。
2018年、ノアのツアー日程を消化し終えた後に同団体への参戦が途絶え、10月に新日本が主催するG1 TAG LEAGUEにネグロ・カサスとのタッグ、カリビアン・シンジケートとして出場した。
2009年4月5日、ブラック・タイガーとして新日本が主催するResolution ‘09にて4代目タイガーと対戦したがデストロイスープレックスホールドに敗れる。
カンペオナート・コントラ・マスカラと銘打たれた試合に敗れたことで、自ら覆面を脱いで自身の正体を観衆に明かすと、最後は4代目タイガーと握手を交わして退場。
2004年4月よりROHに初登場
2010年11月、J SPORTS CROWN主催のSUPER J TAG LEAGUEにリチャーズとのタッグ、NRCとして出場。
2021年現在も新日本プロレスで活躍中
5代目ブラック・タイガー
2009年4月5日、新日本プロレス両国国技館大会で行われたIWGPジュニアヘビー級選手権試合終了後に突如現れて4代目タイガーを襲撃。
6月20日、新日本プロレス大阪府立体育会館大会で4代目タイガーとのマスカラ・コントラ・マスカラ戦に臨み敗れてマスクを剥がされた。
正体は京都出身、在日コリアンの高岩竜一
高岩竜一
1992年2月、専門学校在学中に新日本プロレスの入団テストに合格して7月21日に対小島聡戦でデビュー。
同期入門には現在まで続く盟友の大谷晋二郎がいる。
以降ジュニアヘビー級を主戦場とし、主に大谷や金本浩二と組んで獣神サンダー・ライガー、エル・サムライ、ケンドー・カシンらの他、WARやみちのくプロレスの選手らと激戦を繰り広げ、1998年8月8日には初代IWGPジュニアタッグ王座を大谷と共に獲得。
1990年代のジュニアの黄金期の一角を担う。ニックネームである「ジュニアの超竜」は、ジュニアヘビーを超えたパワーファイトがスコット・ノートンを彷彿させるため、週刊ゴング編集長の金沢克彦が「竜一」と引っかけて、そう名付けた。
2001年に大谷と共にプロレスリングZERO-ONEに移籍。
2008年12月17日の新宿大会後に退団を表明。ZERO1-MAX側も了承し契約が解除されフリーとなった。
2009年2月15日に新日本プロレスにおいてタイガーマスクを襲撃、4月5日以降参戦しているブラック・タイガーの正体であると言われており、タイガーマスクや観客の反応や声、マスク越しに見える顔などからも明らかに本人と分かる。
2009年2月より大日本プロレスのコーチに就任し、9月28日の大日本後楽園大会では高岩竜一として半年振りに試合を行った。
2009年頃から一時、ビルメンテナンスの会社に就職したが、選手復帰を望み、2年余りで退職。
2011年5月、闘龍門のドラゴマニア・メキシコ大会にて、ウルティモ・ドラゴンとブラック・タイガーで、マスカラ・コントラ・マスカラ(敗者マスク剥ぎ)対決し敗戦。ブラック・タイガーのマスクを脱ぎ正体が高岩と正式に判明。
現在は、素顔とブラックタイガー5を使い分けて、様々な団体のリングに上がっている。
2017年3月26日、ZERO1に再入団。
2020年6月29日、5月31日付でZEROから2度目の退団をしていたことが明らかとなった。
現在はZERO1時代に知り合った株式会社iDENサービスに宣伝部と所属しレスラー活動を行っている。
6代目ブラック・タイガー
新日本プロレスで4代目タイガーのマスクを剥ぐなどの行為を行い抗争を展開していた石井が普段はマスクをかぶらずに活動しているにも関わらず2011年1月26日、新日本プロレス千葉ポートアリーナ サブアリーナ大会で石井がブラック・タイガーのマスクを被り登場。
2011年2月20日、新日本プロレス仙台サンプラザホール大会で4代目タイガーとマスカラ・コントラ・マスカラ戦に臨み敗れてマスクを剥がされた。
正体は神奈川県出身の石井智宏
石井智宏
学生時代は野球に熱中。
1996年に天龍源一郎率いるWARに入門し、1996年11月2日の超電戦士バトレンジャーZ戦でプロレスデビュー。
天龍が新日本プロレスに参戦するようになると、付き人として新日本の巡業に帯同。
試合出場はなかったものの、練習には参加し大谷晋二郎、高岩竜一、ケンドー・カシンなどとスパーリングを行い研鑚を積む。
1999年フリーへ転身し、インディーマットを転戦。
その後、FECを経て、2002年9月に長州力がサイパンで合宿している処へ単身乗り込み弟子入りを直訴。WJプロレス所属選手となる。
その後WJを退団。
選手会長として立石史代表と共に新たにリキプロを立ち上げ、ファンクラブ「智宏会」を発足させる。
2006年6月より新日本の矢野通とタッグを結成し、真壁刀義 & 越中詩郎組と抗争を繰り広げ、同団体のリングを主戦場とした。
また、同時期に矢野と共に「G・B・H」へ合流し、敵対関係にあった真壁、越中と共闘。
2009年4月、中邑真輔、矢野が立ち上げた新ユニット「CHAOS」の一員として活動。
井上亘やタイガーマスクを相手に抗争を繰り広げたが、いずれも敗北を喫している。
2021年現在、新日本プロレスで活躍中
7代目ブラック・タイガー
2012年4月13日、NEVER新木場1stRING大会でデビュー。
5月24日、大麻取締法違反容疑で逮捕された(後に冤罪と分かる)。
2016年10月19日、全日本プロレス水戸市民体育館大会にブラック・タイガーVIIのリングネームで参戦。
正体は千葉県出身のNOSAWA論外
NOSAWA論外 本名:野澤 一茂(のさわ かずしげ)
1995年12月27日、PWCでの将軍KYワカマツ戦でデビュー。
その後、PWCを離脱しDDTプロレスリングの旗揚げに参加、CMLLジャパンでは覆面レスラーのスペル・カカオとして活動していた。
1998年、現役女子高生レスラーから現役大学生レスラーとなった千春と結婚(のちに離婚)。
1999年10月よりNOSAWAのリングネームに改め、メキシコなどでMAZADA、TAKEMURAと共に「東京愚連隊」として活躍。その後、TNAを経て全日本プロレスに参戦。新日本プロレスにも特別参戦する。
2017年8月27日、全日本プロレス両国国技館大会にブラック・タイガーとしてTAKAみちのくとタッグを組み、青木篤志と佐藤光留のタッグが持つアジアタッグ王座に挑戦し
102代王者となった。
2010年4月には酒の飲み過ぎで全日本プロレスの試合を無断欠場したため、全日本から無期限の出場停止処分を受けた。
2011年2月20日、試合のため訪れていた仙台市内で泥酔して乗車中のタクシーの運転手に絡み、無免許でタクシーを乗り逃げし窃盗の容疑で緊急逮捕。
このため同日出場予定だった新日本プロレスの試合を欠場することになり、新日本からも無期限出場停止処分が宣告された。
愚連隊興行の他プロレスリング・ノアに定期参戦中。
またリデットエンターテイメントの執行役員に就任。
10月16日福岡国際センター大会での自身の試合後、翌年2023年2月21日の東京ドームで行われる「KEIJI MUTO GRAND FINAL PRO-WRESTLING "LAST" LOVE〜HOLD OUT〜」にて引退することを発表した。
気持ちは続けたいとしたが、体の各所に負ったダメージからドクターストップがかかったことを明かした。
2月21日、引退試合として東京愚連隊のMAZADAと組み、外道、石森太二組と対戦。
試合はわずか4分43秒で石森のブラディークロスに沈み、そのあっけない幕切れに、会場ではどよめきが起こった。
インタビューでは「本当に辞めたくはないが、プロレス界と言うより、世間の問題児にいろいろしてくれてありがとうございました」と感謝の弁を述べた。
まとめ
タイガーマスクのライバルとして初登場し
今もなお続いているブラック・タイガー。
タイガーマスクのライバルとして知られ、彼との激闘はプロレスファンの間で一大ムーブメントを巻き起こしました。
プロレスファンなら一度は見ておきたい、歴代のブラック・タイガーの試合。
彼らが残した名勝負を振り返り、彼らのプレイスタイルに注目してみてはいかがでしょうか。
今後も新しいブラック・タイガー
そして新しいタイガーマスクが出てくるのか楽しみです。